はじまりとおわりを貴方とともに…
pray

「よー、元気?」

「それ嫌味ですかィ」


庭に面した障子を引きながら声を掛ければ、薄暗い室内の真ん中に敷かれた床の中から覇気のない声が返ってきた。
感情のこもらない平坦なところはいつもと変わりがないが、それだけではない、力のない弱々しい声は常にない。
それがあまりに顕著で、茶化したのはこちらだというのに二の句が継げなかった。

「あー…まあ、そうだよな」

ぼりぼりと頭を掻きながら後ろ手に障子を閉める。
足裏に感じるい草の感触は、夏だというのにひんやりと冷たい。先程まで視界に広がっていた泣き出しそうな空が思い出される。それでも外は蒸し暑かったのに、この空間は切り取られたように涼しかった。
薄い障子一枚で隔たれているのは此岸と彼岸か。
生に満ち溢れた屯所の中で、この部屋だけが別空間のようだった。

枕元に座して床の人を見る。
白くても赤みの強かった肌は血の気が引いて青白く、柔らかかった頬も肉が削げて頬骨が浮き出ている。
枕元におかれた痰除けのための水桶が、彼の置かれた状況を物語っていた。

これが本当にあの沖田なのだろうか。
銀時はそう思わずにいられない。
生き生きと自由に屋外を闊歩していた姿は欠片もなかった。



彼が病に倒れたことを知ったのは、街中で彼を見掛けなくなって程なくした頃だった。
空気が澄んでキンと張り詰めた初冬だっただろうか。たまたま鉢合わせた彼の尊敬する上司に何気なく尋ねたのがきっかけだった。

『沖田くん最近見掛けないけど、風邪でも引いてんの?』

それより少し前、最後に会った時の彼が咳をしていたのを思い出したから。そういえば体温もいつもより高かった気がする。そんなことを思いながら彼の上司に視線を向けると、明らかに強張って紅潮した顔をして、突然泣き出したのだ。
そうして紡ぎだされたのが、

『総悟はミツバ殿と同じ…っ』

という搾り出された声だった。

その後は覚えていない。気づいたら万事屋の執務椅子に座っていた。


それから季節を二つまたいで、今初めて彼を見舞っている。

何故何も言ってくれなかったのかとか、そういった恨み言を言うつもりはない。そして何故自分は今の今まで彼の元を訪れなかったのか、それに応える術もない。




起き上がる力もないのか、沖田は枕に頭を預けたまま緩慢な動作でこちらに首を動かす。
目が合うと、血色の悪い乾いた唇の片端をつり上げて不適に笑った。
沖田がよくする、ニヤリという人の悪い笑み。
そんな表情だけは変わっていなくて、でも必死に繕っているのがわかって、銀時は息が詰まったかのように苦しくなった。

「いいザマでしょ」

擦れた声が紡ぐ。

「肺だけじゃなくて腸もやられちまったみたいでねィ。痩せてくばっかでこのザマです。刀も持たせてもらえねぇし、隊服もいつの間にかなくなってるし、寝てばっかですることねぇし、我慢ならねぇからいっそのこと腹斬って終わらせようとしたら今度は刀まで取り上げられちまった。情けねぇ…」

時折咳を交えながらゆっくりと告げられる沖田の話を、銀時は相槌を打ちながら静かに聞いていた。それ以外に何もできなかった。

病はあまりにも速く若い肉体を蝕んでいた。
肺に巣喰った結核菌は徐々にその生息域を広め、やがて全身を喰らい尽くす。進行すれば腸に、そして脳にまで達するという。
医療技術が発展した現在ではあまり見掛けなくなったが、数年前まで労咳は珍しくもない病だった。銀時も何人もこの病に倒れた人間を見てきた。一番最近では、沖田の姉ミツバがそうだ。
皆血を吐いて死んでいく。

沖田の青白い顔が、記憶の中の彼の姉と重なった。


死の宣告をされたと同然の沖田は、憤っているようでも悲しんでいるようでもなかった。
ただ、諦めていた。
自らのいき先を知って、それを受け入れてしまっていた。

「ねぇ、旦那」

微笑を絶やさなかった沖田が、ふいに真顔になる。
視線を低い天井に向けて、静かに続けた。

「旦那は万事屋でしょう。俺の依頼、受けてくださいませんか」

最期だから。

そう、ゆっくりと銀時に視線を移し、小さく息を吐き出すついでの様に沖田は付け足した。
泣きそうなのか、苦しいのか。懇願するかのようなその表情に、銀時は胸が苦しくなるのを感じた。
果たして沖田はこんなに弱かっただろうか。記憶の中の彼と目の前の彼が一致しなくて困惑する。

今まで何度か受けた沖田の依頼は碌なものではなかった。その度に銀時は渋って、それでも最終的には巻き込まれる形で受けてきた。
その沖田の、最期の依頼。

「まーた、ろくでもねぇ依頼なんだろ…」

引きつる顔を何とか動かし、殊更に軽く聞こえるように意識する。
すると沖田も銀時に倣うように再びニヤリと口元をつり上げた。

「よく、わかってらっしゃる」

視線が合えばいつものように笑い合う。そんな慣れた空気に、一瞬でも安堵する。
この空間に踏み入れていた時から感じていた緊張がほぐれていくのを感じた。

そしてはっとする。
擦れていても、苦しそうに息をついでいても、痩せこけて面影が薄くなっていても、ここに居るのは紛れもない沖田なのだ。
ああ、沖田はまだ生きている。自分の前で息をしている。手を伸ばせば触れられるところに存在している。
そんな当たり前のことを忘れかけていたことに気づいて、銀時は苦笑する。

沖田くんはここに居るじゃないか。

薄く笑みを浮かべたままの沖田に手を伸ばす。
半年ぶりに触れた沖田の頬は、かさついていたけれど、温かかった。
ほっそりとした首筋も、薄い唇も、長い睫毛も、大きな琥珀色の瞳も、柔らかくてさらさらの髪も、くすぐったそうに首をすくめるしぐさも、全部沖田だった。

惹かれて惹かれて、どうしようもなく愛しい存在。

ずっと、失うのが怖くて、現実と向き合うことを恐れて逃げていた。彼が倒れたと聞いてから、ずっと。
諦めていたのは自分だったのだ。死病といわれる病に侵された彼を、衰えていく姿を見たくなくて、頑なに会うことを拒んでいた。見舞いに来てやってくれと、総悟も喜ぶからと泣きそうになりながらも笑って言った彼の上司の言葉にも耳を貸さず、目を逸らし続けた。
想像の中の沖田を夢の中でかき抱いていた。
それはなんと愚かなことだろうか。

現実の、本物の沖田の方がずっと大切で愛しくて、こんなにも美しいのに。

触れたままの銀時の手を振り払うでもなく、沖田はその大きな手に頬を摺り寄せる。
目を閉じて、感覚を確かめるように。

「ね、旦那。俺ァね、自分が畳の上で死ぬなんて思いもしなかったんです。戦場か巡回中か、もしかしたらさぼりの昼寝中かもしんねぇ、斬られるか流れ弾に当たってかわかんねぇけど、とにかく外で誰かに殺されるんだと思ってたんでさァ」

剣に生き剣に死ぬのが侍。
いつかの沖田の言葉を思い出す。
それは剣士としての誇りでもあり、覚悟でもあったはずだ。
だが、沖田はすでに一人で立ち上がることすら難しい。その想いが叶うことはもうないかもしれない。それはどれだけの絶望だっただろうか。

「畳の上で死ぬのなら、姉上のように綺麗に死にたい」

彼と同じように病で亡くなった彼の姉。彼女は病弱で、長い闘病の末亡くなった。
だが、最期の時まで彼女自身の意識があった。
最期は安らかに、最愛の弟に看取られて旅立っていった。

だが。

「綺麗な死なんて、どこにもねぇよ」

斬られて死ぬのも、血を吐いて死ぬのも、苦しんで死ぬのも、安らかに死んでいくのも、同じ死だ。 そこには綺麗も汚いもない。
少なくとも銀時はそう思っているし、もし沖田がと想像するなんてできないししたくない。
まだここに生きているのに末路を思う沖田が憎く、切なかった。

頬に触れていた手を動かし、銀時が羨んで止まないまっすぐな髪を梳いてやる。
すると、沖田は気持ちよさそうに目を細めた後、幼子を諭すように、ゆっくりと優しく銀時に話しかけた。

「旦那の手、あったけぇです」

「うん」

「旦那、大好きです」

「……うん」

「旦那に、逢いたかった」

「……俺も、逢いたかったよ」

ずっと布団の中にしまっていた手を出して、沖田は自分に触れる銀時の手に重ねた。
銀時は、一回り小さな骨ばった手が自分の手を必死に握り締めてくるのを見つめる。

「不思議だなァ。ここんとこずっと調子悪かったのに、旦那が来てからなんかすごく気分がいいや。こんなにしゃべんのも久しぶり」

「銀さんも、可愛い沖田くんの声が聴けて嬉しい」

はは、と沖田は声を上げて笑った。
その直後、苦しそうに顔を歪めた沖田が、体を丸めて咳をした。繋いでいた手が離れる。

そして、枕元の水桶に吐き出されたのは、鮮やかな赤。

激しい咳き込みはすぐに治まったが、はじめて見た沖田の喀血に銀時は相当な衝撃を受けていた。その血は否応無く記憶に焼きついた彼の姉の姿を思い起こさせる。
冷や汗が背を流れた。

懐紙で口元を拭った沖田は、息が整うのを待ってから「すいやせん」と罰が悪そうに詫びた。
「いや、大丈夫か」
銀時は沖田の背をさすっていた手を添えて再び床に横たわらせてやる。

横になった沖田は、先程よりも更に顔色が悪く、酷くやつれて見えた。
そんな彼に触れていたくて、なんとかしてやりたくて、疲労の色の濃い顔を撫でてやる。
ついさっき真っ赤な血を吐き出したとは思えない白い唇を拭っていると、沖田の手がその上に添えられた。
図らずも先程と同じ構図になったことに二人で苦笑する。


「もうね、限界なんです」

擦れた小さな声だった。
それでも沖田は必死で言葉を紡いだ。

「このまま生きながらえても多寡が知れてるし、何より意識がなくなって無様な姿を晒すのだけは嫌なんでさァ。死ぬのは怖くないけど、このまま腐っていくのはすげー怖い。自分が自分じゃなくなるのが怖い。耐えられない。テメーの後始末付けられるうちに付けときたいんです」

だから。

「旦那は俺の愛刀探してきてくれるだけでいいんです。後は自分でやりますから」

お願いします、そう付け加えて沖田は銀時を見つめた。
穏やかな表情の中に潜む真摯な瞳と向き合うのが恐ろしくて、銀時は自分の手に触れる沖田の手を凝視することで逃れる。
すっかりと肉が落ちて、骨ばかりになってしまった手。透き通るように白く、儚い。それでもちゃんと温もりはあって、銀時を安堵させる。変わらぬ竹刀胼胝の感触が熱情を呼び覚ます。

触れられた手からは沖田の想いが痛いほど伝わってきた。それは銀時の錯覚かもしれなかったが、きっと気のせいではない。それだけ沖田は傍から見てもわかる程必死だった。必死で銀時に縋っていた。
解りたくないないのに、否定できないその想いが銀時を苛む。

「沖田くんは勝手だよな」

感情はぐるぐると整理がつかないまま、しかし縋る手に体は勝手に反応した。
薄い手に指を組ませて握り返せば、固く結ばれる二人の掌。

この手と手のように、結ばれたまま離さないでいられたら――。

ぽっと浮かんだ有り得ない願望に、銀時は自嘲した。
もともと自分たちの距離は近くもなく遠くもなく曖昧なもので、はっきりと言葉に出せるような単純な関係でもなかった。
知り合いではあるが、友人というには付き合いは薄く、ある時は悪友のようでもあったが、恋人のように過ごしたこともあった。
銀時も沖田もお互いの他に大切なものがあって、そちらを何よりも優先していたから、想いを伝え合うようなことはしなかったし敢えてする必要もないと思っていた。
この先続く道が別たれるかもしれないと思っても、ともに歩む道は想像できなかったし、望む以前に諦めていた。
それは二人とも同じだった。

それでも。
今、この手を離したくないと思ってしまう。
何もかもかなぐり捨てて、この手だけを取って生きたい。
この手を失うなど、そんな未来は考えたくもない。

いい加減認めようか、銀時は諦めにも似た笑みを浮かべる。
こんなにも懇願している気持ちから目を逸らせるのは限界だった。
認めてしまえば簡単なことだ。

沖田を離したくない。

ただ、それだけ。


銀時は視線を動かして目を合わせる。沖田は静かに待っていた。

「依頼ってことは、報酬くれんの?」

静寂の中、銀時は口を開いた。
その言葉に肯定を感じ取って、沖田は安堵したような息を吐いてから小さく肯いて部屋の奥へ首を向ける。

「あそこの引き出しの通帳あげますよ。好きに使ってくだせぇ」

そこには年季の入った文机があった。物の少ない沖田の部屋でぽつりと存在を主張している。
姉上が亡くなってからは使い道がなくって貯まる一方だったんでさァ。
自嘲気味に話す沖田を、銀時は憮然と見つめた。

「いらねーよ」

「旦那?」

沖田は銀時に視線を戻して首を傾げる。

「そんなもんいらねぇ。俺がほしいのはひとつだけだ。それくんねぇと依頼は受けられねぇな」

「それは、なんですかィ?」

琥珀の瞳から視線を逸らさずに。繋いだままの手に力を込めて。

「沖田くんの命」

ごくり、息を呑む音が響いた。

「沖田くんの全部、俺にちょうだい」

ゆっくりと顔を近づけて、息が交わりそうな距離で見詰め合う。
触れる程の近さで、囁く。

「刀は奪ってきてやる。でも使うのは許さねぇ」

沖田の瞳が大きく見開かれた。そして、了承するように瞬きをひとつ。

お互いの瞳に自分の姿が映っていることを確認してから、触れるだけの口付けをした。
それはほんの数秒だったけれど、沖田の瞳は濡れていた。

「アンタは馬鹿でさァ。どうしようもねぇ」

「うん、俺もそう思う」

滴り落ちた一筋の涙を唇で拭ってやる。

「うつっても知りやせんよ」

「銀さん頑丈だから平気だよ」

「ずっと放っておいたくせに」

「悩める青少年の思春期にありがちな過ちだから許して」

「三十路目前のオッサンが厚かましいったらねぇなァ」

「うっせ。心はいつでもティーンエイジャーなんだよ」

額を合わせて見詰め合えば、そこにはもう涙はなかった。
澄ました彼独特の表情が愛しさを運んでくる。

「俺の命は近藤さんのものって、決めてたんですけどねィ」

「妬けるねぇ」

「今更こんな命捧げられても迷惑でしょうし、仕方ねぇから旦那にくれてやりまさァ」

そんなことはないだろう、とは思っても口に出さなかった。それは当の沖田もわかっていることで、どんな状況になっても近藤、ひいては真選組が沖田を拒絶することがないだろうことは誰の目にも明らかで。
その上で自分を選んでくれたことが、受け入れてくれたことが銀時には重要だった。


「交渉成立、な」


今日この部屋でまみえてからずっと、笑っているのに笑っていなかった沖田が初めて、嬉しそうにはにかんだ。

生に輝いた表情。

それに自分も笑い返して、ああこれから俺たちは始まるのだ、と銀時は思った。



愛しい存在を抱きしめながら。




















矛盾しているのと結核の云々については
目をつむってくださると助かります。


(2009年6月1日)