- ※昼と夜が分離しています。
- 氷
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昨日は雪が降った。
といっても、みぞれ交じりの雪で、そんなに強くは降らなかったから、積もりはしなかった。
そのせいかわからないけれど、今朝はすごく冷え込んで、庭にできた水溜りに氷が張っていた。小さな水溜りばかり、庭にたくさん。
冬であれば珍しくもないその景色に、目を輝かせている妖怪が一名。
「リクオも来いよ!おもしれぇぞ」
縁側に腰掛けるボクに、弾むような声を投げかけるのは、妖の血を象ったもう一人の自分。
長い銀髪をなびかせて、小さな水溜りの氷を夢中になって踏んでいる。
片足で踏んで薄い氷をパリパリと割る。その作業を、先程から飽きずに繰り返しているのだ。
まるで幼い子供のようなその姿に、頬が緩んだ。
「ほんと、飽きないなぁ」
実は、夜のリクオが氷を割り始めてから、もう半刻ほど経っている。
寒さにふるりと震えながら、ほんの一時間前のことを思い浮かべた。
今朝は日が昇るのと同時に目を覚ました。
昨夜から続く凍えるような冷たい空気に、とてもじゃないけれどすぐに起き出す気分にはなれなくて、傍らの温もりを抱きしめて二度寝を決め込もうとしたのだけれど、それを許さなかったのは腕の中の半身だった。
「ほら、さっさと起きろ」
「えぇ、もうちょっと寝ようよ…」
ボクが容易に手放せなかった温もりを未練なく手放した彼は、渋るボクを引っ張って意気揚々と障子に向かう。
いつだっておとなしくしている魂じゃないのは解っていたけれど、なにもこんな寒い日にそれを発揮することないだろうに。
だいたい、妖怪の癖になんだってそんなに朝に強いのか。
「雪、積もってるかな」
「雪?」
ああそういえば、と思い出す。
昨夜、空から舞い落ちる雪を見ながら、雪が積もっていたら雪遊びしたいね、と話していたのだ。雪合戦や雪だるま、ボクの話す雪遊びの話を、夢見る子供のような純粋な目で聞き入っていた。
そっか、だからか。
いつにも増して生き生きと輝く目をした半身に、合点がいった。
強引に手を引かれながらも、布団に掛けておいた二人分の半纏を手にとって、片方を自分に、もう片方を夜のリクオの肩に羽織らせる。
目線で感謝を伝えてくるのに、「風邪引くから」と応えれば、柔らかく微笑んでくれた。
笑うとキリリとした切れ長の目尻がちょっとだけ下がって柔らかい表情になる。ボクの大好きな顔。思わずドキッとした。
うん、朝からいいもの見れたな。
一気に気分も上昇して、並んで立って障子を引く。
障子の向こう側の光景は、しかし期待していたものではなかった。
雪は夜の間に止んでしまったらしい。そのあと雨でも降ったのだろうか、雪はほとんど残っていなくて、あるのは庭のいたるところにできた水溜りだった。
恐る恐る隣の半身を見やる。
夜のリクオは、思っていたような落胆の表情はしていなかった。でもその顔には無表情の仮面が貼り付いていた。
ズキンと胸が痛む。
不満を口にしないのは、それだけショックが大きかったということだろう。
昨日、ボクが期待させるようなことを話したから。積もるかどうかもわからなかったのに、自分の迂闊さが悔やまれた。
君のそんな顔、見たくないのに。
なんとかできないかと必死で顔をめぐらせて見ると、昇り始めた太陽に反射してキラリと光るものが目に映った。
それは水溜りに張った氷だった。
あっと思って、藁をも縋る思いで夜のリクオを連れて庭に下りた。
「ほら、氷が張ってるよ」
「こおり?」
「うん、こうやって踏むとね」
片足を水溜りの氷に踏み出す。
すると、パリンと軽い音を立てて氷が砕けた。
「面白いんだよ」
それは小さい頃、よくやった遊びだ。最近ではすっかり忘れていたけれど、昔は面白くて夢中になって遊んでいた。
「やってみなよ」
割って見せた水溜りのすぐ隣の、まだ手付かずの水溜りを指して即す。
ボクがやるのをじっと見ていた夜のリクオは、おもむろに右足を上げると、次の瞬間、氷目掛けて思いっきり踏み込んだ。
ものすごい勢いに、風圧で半纏がなびく。落ちそうになるそれを掴んで、「そんな力込めなくても…」
と苦笑する。
夜のリクオに踏まれた氷は、もちろん粉々だった。
つっかけ代わりの草履の下で、粉々に砕けた氷。踏んだまま微動だにしないボクの半身。
そのまま、数秒。
固まったまま動かない半身をいぶかしんで声を掛けようとした時、急に動き出した夜のリクオは、次々に水溜りの氷を踏み割り始めた。
それはもう、一心不乱に。
注意して観てみれば、頬が少し高潮しているように見える。それは寒さのせいだけではないだろう。
どうやら、水溜りの氷を割る感触は、夜のリクオを異様に興奮させたらしかった。
その勢いに少々圧倒されながらも、ほっとする。
彼をなんとか元気付けようとした試みは報われたのだ。
でも、ただ笑っていられたのは最初だけだった。
最初はボクも一緒になって氷を割って遊んでいた。
ちょっと深めの水溜りの氷を割ってしまって、弾けとんだ水に「うおっ」なんて真顔で驚愕する姿に、思いっきり笑ってしまったりもした。
でも、いい加減寒さも限界だ。
寝起きのまま出てきてしまったから、半纏を羽織っているとはいえ、寝巻に裸足の格好は相当冷える。
着替えてこようと呼んでも、その間も惜しいのか、「もうちょっと」と返事をするばかりで氷から離れようとしないから参った。
水溜りの氷を割るなんて、誰でもほとんどが小さい頃に体験したことがあるだろう。でも、幼少期をボクの心の中で過ごした夜のリクオには、当然ながらそんな経験はない。
だから、ほんの些細なことでも真新しくて興味深いのだろう。まるで新しい発見でもしたように目を輝かせているのは、微笑ましい。その姿は、とてもじゃないけれど、百鬼を率いて畏れを集める妖怪と同一人物とは思えない。
そういえば、数ヶ月前の秋の朝、吐く息が白いのにびっくりしていた。面白がってハアハアしまくっていたけれど、こっちは違う意味でハアハアしそうだったのは内緒だ。
いちいち反応が純粋で可愛らしいのだ。
可愛いんだけどね。
寒いものは寒い。
「パリっつったぞ」
「うん、薄いからね。すぐ割れる」
幾重にも亀裂が入り、砕けた氷。
「ガラスみてぇ」
しゃがみ込んで、その中でも比較的大きめの欠片に手を伸ばす。
なんの警戒も持たずにそれを手に取った夜のリクオは、その冷たさに驚愕して落としてしまった。
パリンと軽い音をたてて、氷の欠片が砕ける。
氷の冷たさが余程予想外だったのか、砕けた氷の欠片と自分の手を何度も繰り返し見比べている。
「冷てぇ…」
「氷だからそりゃ冷たいよ」
冷たい氷に触れて真っ赤になってしまった指の先を手に取り、ふうふうと息を吹き掛けて温めてやると、夜のリクオは呆気にとられたみたいにボクを見て、「そっか」と言った。
「そうだよな、氷は冷てぇんだ」
うんうんと納得するように頷き、ボクが握っていた手をみつめた。
ボクと記憶や知識を共有していたから、『氷は冷たいもの』ということは識っていても、それを実感を伴って知ったのは初めてだったのだろう。
「あったまった?」
「うん」
少しばかり熱を取り戻した手を、しかし夜のリクオは再び氷に向けた。
今度はゆっくりと、かつ慎重に。
先程手にしたものよりも少し小さい欠片を、今回は落とさずに持ち上げる。手のひらくらいの大きさの薄い氷。
「向こうが透けて見えらぁ」
透明な氷を透かして見れば、そこには歪んだ世界が映った。
太陽に反射してキラキラと光るそれを、夜のリクオはうっとりと眺める。
「きれい…」
土や空気が含まれたその氷は、人工的に作られたものと違って、不純物だらけだけどその分どこか儚げで美しい。
確かにキレイだけど――。
そんな無機物よりも、君のがずっとキレイだ、と口には出さないけれど思う。
朝日に反射する銀色の髪は絹糸のようにつやつやと輝いているし、金色の瞳は透き通って宝石のようだ。薄い唇は微妙に開かれていて赤い舌が垣間見える。整った鼻筋とそれらが絶妙に配置されて形作られた美しい顔立ち。
そしてその容姿を引き立たせる純粋な心。
惹かれてやまないその存在に、寒さも忘れて魅入ってしまう。
氷に注がれる視線にすら嫉妬しそうだ。
が、夜のリクオがその手のものをおもむろに口に持っていき、ぺろりと舐めたのを見て、我に返った。
「うえっ、まずっ!」
顔をしかめて、持っていた氷を放り投げた半身に、ボクは焦ってその顔をこちらに向けさせた。
「ばかっ!何やってんだよ。汚いだろ」
慌てて袖でその口元をぬぐってやれば、「だって」と拗ねたような表情。
「きれいだから甘いかと思ったんだ」
「あのね……」
ハァと溜息を吐きつつも、口を尖らせた表情が可愛くて頬が緩んでしまう。本当に純粋で、何も知らないまっさらな子供のようだ。
それにしたって、発想が幼すぎるよ。
「これもともと泥水なんだよ。バイキンが入っちゃったらどうするの」
「妖怪がンなもん恐れっかよ」
「恐れてよお願いだから」
いくら妖怪とはいえ、人間の血だって引いてるんだ。
興味の赴くままなんでも口にされたら困る。小さい子供をもつ親っていうのは、いつもこんなハラハラした気持ちでいるのだろうか。
ふと自分の幼い時分を振り返ってみて、反省した。自分だって他人のことを言えた義理ではなかったのだ。
――と思ったところで苦笑する。
他人じゃなくて、自分ではないか。なるほど、道理でやんちゃなはずだ。
「氷食べたいならつららに作ってもらえばいいだろ。ほら、着替えてこよう。そろそろ朝ごはんの時間だよ」
腕を引いて立たせ、連れて行こうとすれば、一瞬のうちに手をすり抜ける感触。
見れば、手の中にあったはずの温もりはどこにもなく。
ちょっと離れたところで再び氷割りに精を出す姿があった。
「―――っっ!鏡花水月ーーっ!妖術まで使うなよ!聞いてんの、リクオ!?」
「んー、もうちょっとな」
完全に出し抜かれた悔しさと、温もりに逃げられた寂しさと、他にもなんやかんやで思わず叫んでしまったのに、あまりにあっけらかんと返ってきた半身の声としてやったりの表情に、一気に力が抜けた。
「………まったく、もう」
大きく息を吐いてから、顔を上げてもう一度半身を見れば、一心不乱に氷を割っている。生き生きとした子供みたいな顔。
「ほんとに、困ったやつ」
ぬらりくらりと、また振り出した。
でもまあいいか。ここまできたら飽きるまでやらせておこう。どうせ少しすれば腹が減ったと言い出すだろう。
それに、もともと氷割りを教えたのはボクだしね。
それを思えば、庭中の氷と格闘する姿にも自然と笑みがこぼれてきた。
もう少し、寒さに耐えて最愛のヒトの楽しむ姿を眺めているのも悪くはない――。
それは寒い朝の出来事。
おしまい。
夜若はちっちゃい子みたいに単純なことで夢中になって遊んでいたら可愛いと思う。
前回ボクボク言い過ぎだったので、今回は「リクオ」と呼ばせてみました。
昼夜は当然のように同衾してるといいよ。
(2011年2月14日)