The World's Edge
1.催涙雨


7月7日。
今年の七夕は雨だ。
昨日から降り続いた雨は今も上空を厚く覆った雨雲からぱらぱらと滴り落ちている。
強くもないが、止みもしない。
梅雨特有のこもった空気とともに、どんよりと、気分まで暗く湿ってしまいそうな天気。
「はあ、今日も歩きか…」
愛用のスクーターは自宅に待機中。
さして遠くもないが、雨の中を歩くというのはそれだけで憂鬱だ。
それに、と銀八は目の前の鏡に映った自分と目を合わせる。
死んだようなと形容される目は相変わらず。銀色の髪の毛はいつも以上にボリュームがある、ように見える。というか、爆発している。
くっそ、梅雨のバカヤローふざけんじゃねーぞテメー何がインディペンデンスデイだっつーのただ雨降ってるだけじゃねーか。
誰に向けてでもなく、文句が口をつく。
いらいらしている時はこんなものだ。とにかく気に食わない。湿気なんてクソ食らえ。
ぞんざいに洗った手を白衣の裾で拭く。立ち去ろうとして、ふと思いついて鏡の中の自分とにらめっこしながら手櫛で髪を整えてみる。全くもって意味はなかった。

男子トイレから出ると、見慣れた生徒と鉢合わせした。
「あ、せんせ。おはようございやーす」
「おー、はよー」
片手を挙げてかったるそうに挨拶をしてきたのは、明るい栗色の髪とくりくりした大きな目が印象的な少年。銀八の受け持つクラスの沖田総悟だ。
「今日も絶好調ですね、頭」
「うるせーよ黙れよさらさらストレートのやつには一生この苦しみはわかんねーよ」
「そうですね、すいやせん」
「何コレ、素直に謝られてんのに何でこんなにムカつくの」
「先生がひねくれてる証拠でさァ」
「あぁ!?髪がひねくれてるだと!?先生マジ傷つくわー」
片手で顔を覆ってうなだれると、クスクスと控えめな笑い声が聞こえてくる。
「ほんと、先生って面白いお人だァ」
顔を上げると、先程までの無表情が嘘のように沖田が微笑んでいる。なまじ整った容姿をしているだけに、笑うと美少女めいた愛くるしささえ浮かぶ。
思わず目のやり場に困ってしまい、誤魔化すようにカリカリと頭を掻いた。
「ほれ、さっさと教室行けー。ホームルームはじまんぞ」
どうせ目的地は一緒なのだが、どうにも並んで歩く気分にはなれない。
沖田はそんな銀八の複雑極まりない心中など気づくこともなく、素直に従った。
「へーい。あ、先生今日放課後準備室います?」
「んー。たぶん」
「わかりやした。んじゃまた」
笑顔を残して去っていく沖田を見送って、銀八は大きく息を吐いた。

雨は止まない。



実は、沖田のあのような綺麗な笑顔を見るようになったのはそんなに昔ではない。
銀八が沖田の担任になったのは2年の時からで、もう一年と数ヶ月になるが、最初の頃はなんと表情のないやつだ、と思ったくらい無表情ばかり目にしていた。たまに動いたかと思えばニヤリ笑いだったり嫌みったらしい嘲笑だったり。別名居眠り王子の名を冠する沖田は授業中の居眠りが多いのだが、それだって気味の悪いアイマスクを付けているから寝顔が見えるわけでもなし。とにかく、表情が動かない、何考えているのかわからないガキ、というのが最初の印象だった。

その印象が変わったのは、2年生もあとわずか、という頃。

食後の一服をしようと屋上に上ると、そこには沖田ともう一人、女子生徒の姿があった。
桜の蕾はようやく膨らんできたけれど、風はまだまだ冷たくて、まさかこんな中屋上などという過酷な環境に身を置こうなどという人間が自分以外にいるとは思わなかったので、正直驚いていた。というか、本来は屋上は立ち入り禁止なので、銀八自身を含めそこに誰かがいるということが本来有り得ないことなのだが。
だが実際屋上の施錠なんていうものはあってないようなものだというのが暗黙の了解となっていたし、こんな場所でこのシチュエーションではどう考えても自分は邪魔者でしかなかったので、銀八も折角の計画を邪魔されて残念ではあったが、見て見ぬふりをして引き返そうと思った。
しかし、そうはならなかった。
何の因果か、銀八が重い鉄のドアを閉めようとドアノブを引いた時、突風が吹いてドアを持っていかれてしまい、あまり強く握っていなかったためにドアは銀八の手を離れ、ガツンと大きな音を立てて外壁にぶつかったのだ。
振り返る二対の目。気まずい雰囲気が流れる。
銀八が如何にすべきか迷っていると、沖田の向かいに居た女生徒が動いた。何事かを沖田に伝えると、銀八に会釈をしながら走って屋上を去っていった。
沖田は動かない。
「あー…なんか、ごめんね。邪魔しちゃったみたいで」
とりあえず、入り口に突っ立っているのもなんなので、大きく開いたままのドアを閉めて屋上に立ち入る。今度は突風は吹かなかった。沖田はいるが当初の目的は済ませてもいいだろうと判断を付けて、入り口近くの給水棟の壁を背もたれにしてタバコに火をつける。
「校内禁煙ですぜ」
気づくと沖田が隣に来て腰を下ろしていた。
「そういやお前風紀だったっけ。ちょっと見逃せよ」
「えー、どうしよっかなぁ」
言葉ではそう言うが、沖田は全く悩むようなそぶりはなかった。ここでタバコを吸っている教師がいることなど誰にも言うつもりはないだろう。不思議と銀八はそう確信していた。
それから銀八が一本吸い終わるまで、沖田は何もしゃべらなかった。何を見ているのか、いつもの無表情でただ前を見つめていた。
携帯灰皿に吸殻を捨てて、手持ち無沙汰になった銀八は、ふと深く考えもせずに先程の女生徒のことを沖田に尋ねてみた。
「さっきの子、彼女?」
銀八の問いに、沖田は心底驚いたような顔をして振り返る。そして数秒の沈黙の後、
「…そんな風に、見えました?」
と戸惑いつつ問い返す。
それがあまりに元気のない様子だったので、銀八の方が戸惑ってしまう。表情自体は変わらないけれど、なんというか、雰囲気が消沈しているような。いつもの飄々として沖田とはどこか違っているように感じられた。
「いや、見えなかったな。どっちかっつーと、今将に告白されました的な感じに見えたけど」
とりあえず思ったままに返答すると、沖田はあからさまにホッとしたようだった。
「名前も知らねー他クラスの人でさァ。話したのも今日はじめてだし。突然呼び出されたんです。もちろん断りやした」
今度は打って変わって饒舌に銀八に説明してくる。聞いてないことまで教えてくれる。声音は平坦な調子に戻っているが、やはりいつもと違う。どうしたことか。
「そうなの?結構可愛い子だったじゃねーか、もったいねぇ」
「……先生はああいうのが好みなんですか?」
まただ。元気がなくなるというか、とても不安そうな沖田。声も一段と低くぼそぼそとしている。
「んー。いや、好みじゃねーけど」
銀八が否定の返答をすると、沖田はやはりホッしたように強張っていた口元を緩めた。
「そっか。よかった」
「ん?よかった?」
何が?疑問を口にする前に、沖田が畳み掛ける。
「じゃあどんなのが好みなんですかィ?」
「え、つか、そんなの聞いてどうすんの」
「参考までに」
参考って何の参考だ。そうは思えど、沖田があまりに真摯な目で見つめてくるものだから、こちらもまじめに答えなければならないような気になってしまう。
「あーと、そうだな。俺はどっちかっつーと色白で可愛らしくて清楚な感じの方が。乳はでかいに越したことはねーけどそこまでこだわりはないな。それよりも美脚のが重要。ああでもこれは絶対。髪はストレート。これは譲れねェ」
半ば面倒臭いと思いながら適当に答えた答えは、言ってしまえばなんだちゃんと自分の好みを言い表しているじゃないかと銀八は他人事のように感心した。
「ふむふむ。絶対条件はクリアか。ああ、でも足はどうなんだろ。顔は…可愛い系なのか?」
自画自賛している銀八の隣で、沖田はぼそぼそと何事かつぶやいている。
「何?何がクリアだって」
聞こえはしたが意味を図りかねて、銀八は沖田と目線を合わせるように腰を下ろしながら尋ねてみる。
その返答は、銀八をこれ以上ないくらい驚愕させた。
「俺なんてどうです?」
「は?」
沖田はほぼ同じ高さになった銀八の顔を覗き込むように顔を傾げてくる。
こぼれそうな大きな目がこちらを見上げてくるのに、馬鹿みたいにドキリとした。
「ちなみに、俺の好みは銀髪天然パーマで死んだ魚の目をしてて眼鏡かけてるやる気のない国語科教師です」
遠まわしな沖田の突然の告白に、銀八は唖然とする他なかった。

そんなことがあって以来、沖田は頻繁に銀八の前に現れるようになった。
屋上が銀八のサボり場だと知ると、銀八がサボる時間を見計らったように屋上にやってきたし、現国の教科書片手に国語科準備室の扉を叩くことも増えた。(質問なんてのはきっと二の次なのだろうが、実際沖田は理数脳で国語は滅法苦手だった)
あの日の沖田の告白は曖昧で遠まわしなものだったが、それからしばらくして「先生が好きです」と実に潔い告白をされたので、銀八が都合のいいように誤魔化して解釈することは不可能になった。
正直に言えば、沖田は銀八の好みのど真ん中だった。それまで一年近く目にしていて何故気づかなかったのかと言えば、それは一生徒としてしか見ていなかったからに他ならないのだが、一度意識してしまえば元に戻すのは不可能だった。甘い色のサラサラの髪や色白だが健康的な肌や大きな瞳や勝気な表情が目に付いて離れない。
完全に教師と生徒の枠を超えて沖田を見ている自分がいた。
しかし、数ヶ月経った未だ沖田の気持ちに対して明確な返答はしていない。沖田も沖田で、返事をもらうのを敢えて引き伸ばしているようだった。
このままでは駄目だと思いつつ、銀八は沖田を拒否できないでいる。
銀八は見返りを求めない沖田に甘えていた。



放課後、沖田は片手で持てる程の小さな笹を持って国語科準備室にやってきた。
準備室とは言っても、銀八が校長を脅して空き部屋をぶんとって都合のいいように改造してきたものなので、名ばかりで他に使用している者はいない。言ってしまえば根城だった。
所々に亀裂の走る古いソファに並んで座り、沖田は楽しそうに飾りを作っている。まるで鼻歌でも歌いそうだ。
折り紙とハサミで器用に飾りを作る沖田を横目で見つつ、イチゴ牛乳をすする。
人形じみた細く白い指が意思を持って動いているのが不思議だった。
「近藤さんがね、どっからかでっかい竹を調達してきて、さっきまで風紀や部のやつらと飾りつけしてたんでさァ」
あの人イベント事大好きでねィ。
そう言う沖田はやはり楽しそうにニコニコしている。今まさに沖田の頭の中を占領しているのであろう人物が嫌というほどわかって、銀八は苦虫を噛み潰したような気分になった。面白くない。
何笑顔の大安売りしてんだこいつは。
「できた!」と見事な貝殻飾りに変身した折り紙を銀八に掲げて見せる沖田に溜息ひとつ。
「んで、大好きな近藤ほっぽって、沖田くんはこんなとこに来て何してんの」
「ほっぽるって、人聞き悪ィなァ。ちゃんとサヨナラの挨拶してきやしたよ」
今日は数日続いた定期試験最終日で、沖田の所属する剣道部はミーティングだけですぐに終わったらしい。近藤というのは剣道部主将で、ついでに風紀委員長であり、銀八のクラスの生徒でもある。この近藤と沖田は幼馴染らしく、人見知りの激しい沖田が珍しく懐いている人物だ。それが銀八には面白くない。
「つーか、見てわかりやせん?」
多少の嫌味を込めたのだが、沖田は全く頓着せずにせっせと作業を続ける。
数種類の飾りと、これまた折り紙を切って作った短冊が数枚。ハサミを置いて切りくずをまとめてゴミ箱に捨てると、沖田はテーブルの端に置いておいた笹に手を伸ばした。
「夢も希望もなくしちまった感じの先生の目が煌めくような未来がやってくるといいですねー無理かもしんねーけど、という願いを七夕飾りに込めようと心優しい俺が参上してやったんでさァ」
そのくらい慮ってくだせェよ、とでっかい溜息を吐いて沖田は呆れたように銀八を見やる。ついでにさらさらと銀八の目の前で笹を揺らす。
「いやわかんねーよ、わかってたまっか。言っとくけど夢も希望もなくしてないからね、先生いつでも煌くからね。つーか文章おかしいだろ!?これ願ってもいないよね超他人事だよねしかも欠片も叶うと思ってねーだろオイ。沖田くん的先生の未来お先真っ暗なの!?」
「まあまあ、そんなに気を落とさねェで。俺ァ正直に言ったまででさァ」
「全然慰めてねーよ」
「んじゃ笹さんが慰めてくれるそうです」
さらさらと、銀八の顔に押し付けて笹を揺らす。
「うわっ、くすぐった!つか痛っ!ちょ、やめてくんない!?」
「わがままだなァ」
「お前が唯我独尊すぎんだ!」
溜息つきたいのはこっちだ、とばかりに大仰に息を吐く。溜息を吐くごとに幸せが逃げていくというが、本当にそんな気がしてくる。沖田といると銀八は振り回されてばかりだ。それが嫌ではないというのが一番困ったことなのだが。
「さ、飾りつけやしょ」
笹と飾りと両手に持って沖田がにこりと微笑む。
まるで邪気のない笑みに毒気を抜かれた気分だ。毒気など目の前の少年の腹の中にたっぷりと溜まっているに違いないのに、その人物を前にしてなんともおかしな表現だったが。ああそうか、こうやって他人の毒気を吸い取って溜めて発散してんだな。だからこいつ腹の中真っ黒なんだきっとそうだ。
そのくせ綺麗で純粋な心を持っているのも、きっとそのせい。
馬鹿げた妄想に首を振りつつ、差し出された沖田手製の飾りを受け取る。
「つーかこういうのって七夕当日に飾り付けるもんなの?数日前とかにやっとくもんじゃねーの」
「そうなんですかィ?まあ男が細かいことを気にしちゃいけねェ。ハゲますよ」
「いやハゲねーよ。ハゲよりは天パー選ぶよ先生」
「懸命な判断でさァ。あ、ちゃんとバランス見て付けて下せェよ」
「おー。なんか久しぶりだなァ、こんなんするの」
小さな笹に合わせて小さく作られた飾りは、シンプルだが良くできていて、飾りつけられればそれなりの笹飾りになった。
「童心に帰るっつーんですかね」
「童心って…」
お前今も童心でしょ、と苦笑して心の中でつぶやいたのに、沖田には声に出さない銀八の声が聞こえたらしく、むっと口を尖らせる。
「オッサンにゃ敵わねーです」
「オ…!?いやいや、先生まだ二十代だから。オッサン手前オーケー?」
「ぴちぴちの十代の俺からすりゃ二十九も三十も皆等しくオッサンでさァ」
「違うからね、二十代と三十代じゃ天と地ほども違うんだよ。ここ重要!解るかな?よーし、解ったら十字以内で述べなさい」
「若くてすいやせん」
「うわー…オッサンのハート傷ついたよ」
軽口の応酬に半ば本気で傷ついて肩を落とすと、「結局オッサンって認めてんじゃねーかィ」と沖田が笑った。
「あ、墓穴」
クスクスと最後の飾りを笹の細い枝に結びつけながら、沖田は独り言のように呟く。
「ま、そんなオッサンが好きなんですけどね」
「……」
銀八は反応に困って、あーだとかうーだとか口をパクパクさせた。目を逸らして、沖田に気づかれないように溜息を吐く。全く、こんな風に突然告白してくる癖をどうにかして欲しい。こっちはいっぱいいっぱいだというのに。
沖田は銀八が逸らせようとするのを許さないとばかりに、事あるごとにさりげなく想いを放ってくる。
その度に見事な命中率で銀八の胸を射るのだが、沖田は放った矢を回収しには来ない。強引に振り向かせようとするわけでもなく、押し付けようとするでもなく、ただ射るだけ。だからこそ、始末が悪い。
「よしっと。見て下せェ。なかなかの出来だと思やせん?」
飾り付けを終えた沖田が出来上がった笹飾りを得意気に掲げる。眩しい笑顔付きで。
ほんとに笑顔大安売りだな、特売日か今日は。
そんな甘い態度を取っていると、ずるい大人はそこに付け込むことをいい加減学習しなさい。心の中で沖田に叱咤しながら、一方で自らには教師面していい気なもんだ、そんな気欠片もないくせに、と反吐を吐いた。
そんな心は押し隠して、銀八は今日もまた聞かなかったフリをする。
「んー、いいんじゃねーの」
「反応薄いなァ。そんなんだからマダオって言われるんですぜィ」
言葉とは裏腹に、沖田の笑みは消えない。何が嬉しいのか、ニコニコは崩さずに、今度は短冊を手に取った。もう一方の手で、試験日だったというのにノートの一冊も入っていなそうな薄い鞄をごそごそと漁る。現れたのは12色入りの色鉛筆。
アルミの蓋をかぱりと空けて中央に置くと、「はい、コレ先生の分」と数枚の短冊が銀八の前に置かれた。
じゅるじゅると意地汚くイチゴ牛乳を最後の一滴まで飲み尽くし、殻のパックをゴミ箱に放る。
「先生の分って、こんなに?」
銀八の分として配られた短冊は5枚だ。沖田の前にも同じだけの短冊がある。
「足りやせんか?でももう折り紙ねェからなァ。仕方ねェ、そこら辺にある紙適当に切るか」
「いやいやいやいや、そうじゃなくて。つかそこら辺の紙は結構重要なの混ざってるからやめて!」
「えぇー」
「文句言うんじゃありません!じゃなくて、普通七夕の願い事って一人いっことかじゃねーの?」
「何ケチ臭ェこと言ってんですか。数打ちゃ当たるっつーでしょ。こういうのは書けるだけ書いとかなきゃ損ですぜ」
「何その論理。宝くじじゃねーんだぞ」
「宝くじすら当たったことない人に言われたくねーです」
「失礼な!当たったことありますー!300円当たりましたー!」
「そんなん当たりに入りやせん。せめて諭吉連れてきて下せェ」
「せめてって、お前諭吉が一番高価だろうが」
ハァとわざとらしく溜息を吐く。気を抜くと頬が緩んでしまいそうだった。沖田との軽口は楽しい。
「まあいいじゃねーですか。あんま深く考えずに気楽にいきやしょうぜ」
「まーな」
沖田の数打ちゃ当たる論理はどうかと思うが、そもそも七夕に願いを込めるなどというものも気休めみたいなものなのだから、それでいいかと思い直した。
「なあ、これもっといい色なかったの」
短冊を数枚手に取る。どれも黒や茶色や深緑といった暗色ばかりだった。かろうじて数枚だけ白や薄茶が混じっているが、ぱっとしない色には変わりない。沖田のものも然り。
「仕様がねェでしょう。これ残りもんだし、いい色全部飾りにつかっちまったし。ほら、裏の白面に書けば問題ないでさァ」
「まあそうだけど」
折角綺麗に飾りつけた七夕飾りに、短冊を吊るしたら暗い雰囲気になってしまいそうで少々残念だった。
沖田が一生懸命作ったのに。
しかし当の沖田は全く気にしていないようで、真っ黒の折り紙を片手に何を書こうか悩んでいる。
よりによって黒かよ。
「とりあえず、『土方死ね』」
「おーい、織姫と彦星に何物騒なこと願ってんだ。暗殺依頼じゃねーんだぞ」
「依頼っつーか、意思表示でさァ。土方抹殺の決意を新たにするための」
「願い事でもなんでもないよねソレ」
土方はやはり近藤と同じ沖田の幼馴染で、沖田は暇さえあれば土方に嫌がらせをしている。仲はいいのだろうが、だからこそ、ここでわざわざ土方の名前を出すのが銀八は気に入らない。そんな素振りは見せないが。
「ま、土方は前座でさァ。こっからが本題」
願い事に本題も何もないと思うが、沖田には何を言っても無駄だとわかっているので言わない。
沖田は次に白い短冊を選んだ。
「『先生に明るい未来が来るといいですね』」
「小学生の作文の添削ー!?お前は赤ペン先生か!?つーかさっきから全然願い事になってねーんだけど。そもそも先生の未来はもとから明るいからね!」
「えー。じゃ先生は何書くんですかィ?」
「そうだな。ま、コレは外せないっしょ」
無難に白の短冊を選びつつ、適当に取った色の濃い色鉛筆を右手に迷いなく書き込む。
「『糖分』っと」
「それ願い事なんですかィ」
「『今度こそストパーがかかりますように』」
「あー……健闘を祈りまさァ。つか試してたんですかィ」
銀八の手元を覗き込みながら、沖田は茶々を入れたり哀れんだ目をしたりしている。
願い事の内容としては銀八も沖田と同レベルだった。
「ちょー、こういうのは人に見られると叶わねェんだよ。どうしてくれんの、先生のストパー計画が瓦解したら」
「散々人のにケチつけてたくせに。安心しなせェ。そんな砂上の楼閣風に吹かれてあっという間に崩壊でさァ」
「うるせーよ、夢くらい見させろや」
「人の夢と書いて儚いっつーんですよねィ」
「あ、やべ、泣きそ…」
片手で顔を覆って泣きまねをしてみせる。すると、「お泣きなさんな」と沖田は気軽な声が降ってきた。
「その天パが好きな奴がここにいるんだからそれでよしとしなせェ」
「……」
顔を覆ったまま口ごもる銀八を余所に、沖田は残りの短冊にさらさらと願い事を書いている。
相変わらず返事を聞く気はないらしい。
そういえば、初めて沖田に告白めいたことを言われた時にも、天然パーマが好みだとか言われたことを思い出す。湿気でいつも以上にボリュームのあるコンプレックスのモトを片手で掻きまわして、むず痒い気持ちをどうにか発散させようと試みる。あまり効果はなかったが。
全ての短冊を書き終えたらしい沖田は、それらを笹に括り付け始める。
支えのない笹はテーブルに横たわった状態だ。
銀八は気持ちを入れ替える意味も込めて立ち上がり、奥から灰皿代わりに使っている空き缶を持ってきて笹をぶっ挿した。
小さな笹飾りは、切花よろしく空き缶に支えられてテーブルの上にひとり立ちした。
「おおー!」
パチパチと拍手をしながら銀八を迎えた沖田が、早く早くと銀八を急かす。銀八の短冊も飾れということらしい。
急かされるままに、大人気なくも本気で成就してほしいと思っている願い事の短冊を括り付ける。
「あーあ、これで晴れてたらもっと良かったんですけどねィ」
短冊がなくなって手持ち無沙汰になったのか、沖田は窓の外に目をやって呟いた。
「梅雨だからなー。晴れろっつー方が無茶だろ」
雨は小降りになり、時折止むこともあるが、雲が晴れることはなさそうだ。
今年も空に星を見ることは叶わないだろう。
「ねえ先生は知ってます?七夕の日に降る雨のこと、催涙雨っていうそうですぜ」
「ああ、織姫と彦星が流す涙っつー」
「おー、流石腐っても国語教師」
「腐ってもは余計だ」
へへ、と笑って、沖田はソファに背を預けて顔を上げる。まるで天井を突き抜けて空の向こうを見ているかのようだ。
「今年も逢瀬は叶わねェのかな。毎年毎年可哀想になってくらァ」
「沖田くんは優しいね」
二枚の短冊を付け終わった銀八は、沖田と同じように背を凭れ掛ける。違っていたのは目を閉じていたこと。目を開けていても、銀八には黄ばんだ低い天井しか見えない。
「そうでもないです。だってあいつ等馬鹿だと思いやせん?幸せ気取って後先考えずいちゃいちゃすっから」
説話の登場人物をまるで知り合いであるかのように語る沖田が面白くて、銀八も目を閉じたまま少し頬を緩める。
「自業自得か」
「そうでさァ」
だって、と続けられた沖田の言葉に、銀八は目を見張った。
「俺は好きな人と会えるだけでこんなに幸せなのに」
横目で見れば、沖田は相変わらず天井を見上げていた。まっすぐに、睨んでいるようにさえ見えた。
「それ以上を望むから罰が当たるんでさァ」
会えるだけで幸せ。話せたらもっと幸せ。一緒にいられたら満足。だからそれ以上は望みません。
沖田はそう言う。それは恋を知ったばかりの少女のように初々しく、一方で恋に疲れた女が終結を恐れるようでもあった。
見上げる沖田が思うのは、嫉妬か、それとも羨望か。
何れにしても高校生の少年の思考とは思えないそれに、銀八は眉をひそめる。
「なあ、お前はそれで満足なの」
沖田は少し考えてから、銀八に顔を向けて困ったように笑った。
「欲張ったら、ちょっとの幸せも無くなっちまいそうでしょ」



ソファに深く腰掛けて、銀八は深く息を吐いた。
隣に座っていた沖田はいない。
あの後突如として銀八の携帯が鳴り響き、職員室に呼び出されたのだ。そのため、沖田との会話も時間も中途半端に途切れてしまった。
職員室での用事はすぐに終わって再び準備室に戻ってきたのだが、沖田はいなかった。銀八と一緒にここを出たのだから当然なのだが。
一人だけの空間。
テーブルの中央には七夕飾り。
何とはなしに視界に入れていると、ふと目に付いたものがあった。それは沖田が書いた短冊だった。
銀八が茶化していたものではない。銀八が見ていない時に書いたもののひとつだろう。
癖のある右肩上がりの字が綴る。
『先生とずっと一緒にいられますように』
「あいつ、バカだ…」
一瞬言葉を失って、ようやく出てきたのは、罵声まがいのそんな言葉。
そんなこと、願わなくても叶っているじゃないか。
「…いや、バカなのは俺か」
沖田が異常に臆病なのは、全部自分のせいだ。
沖田が見返りを求めないなどと、そんなのは銀八の都合のいい言い訳で、曖昧な態度を取り続ける自分が沖田に返事を求めさせなかっただけ。
教師と生徒、男同士、そんな世間体を理由に逃げていたに過ぎない。
沖田はそれを敏感に感じ取って、それでも一緒にいられる方法を彼なりに考えたのだろう。
「ほんと、どうしようもねぇな」
残っている短冊を手に取る。
薄茶色のそれは、まるで沖田の髪のようだ。甘いミルクティのようなその色が、銀八はとても気に入っていた。
その色の付いた面に、肌色の色鉛筆で一言書き込む。
薄い文字は、光に透かさなければ読むことはできない。
一瞬悩んで、銀八はそれを沖田の短冊のすぐそばに括りつけた。
「意思表示…ね。これが俺の決意表明か」
それはあまりに女々しくて、自分のことながら自嘲するしかなかった。







好きだ



















沖田生誕文のつもりがこんなことに…。

(2009年7月7日)