- 3.becoming soon
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「はぁー……」
さして広くもない国語化準備室に、不釣合いなほど大きな溜息がひとつ。
体中の空気をすべて吐き出したかのようなその音に、沖田は目を丸くしてその元凶へと視線を移した。
古びた二人掛けソファ、そこに座る沖田の隣にその人はいた。
坂田銀八。
沖田のクラスの担任であり、想いを寄せる人である。
その銀八はくたびれたソファに深く腰を掛け、肩を落として生気のない瞳を虚空に彷徨わせている。常日頃から「死んだ魚のような目」などと揶揄されているが、眼鏡の奥のそれが今日はまた一段と死んでいる。いつも好き勝手はねまくっている天然パーマですら、心なしか元気をなくしてへたっているようにも見えるのは気のせいだろうか。
どうしたんだろう?
あまりに気落ちした様子に、沖田は首をかしげる。
「せんせ?」
控えめに呼びかけると、銀八はのろのろと首を動かしてこちらを向いた。
「どうかしたんですかィ?」
視界の端に、汗をかいてテーブルを濡らしている飲みかけのイチゴ牛乳のパックが映る。存在すら忘れられていそうなそれを銀八に手渡すと、彼は素直に受け取ってじゅるじゅると行儀悪く飲み干した。
糖分を摂取して多少落ち着いたのか、銀八は先ほどよりは生気の戻った目で壁に掛けられたカレンダーを見やる。
銀八の視線を追った沖田の視界も銀八と同じものを捕らえた。
「カレンダー?」
「うんそう。カレンダー」
一月表示のカレンダーが示すのは、10月。そして今日はその9日の金曜日だ。
沖田の視線は翌日に集中する。
明日は――。
「明日…」
自分の中の呟きと銀八の声が重なってドキリとする。考えがもれてしまったのかと焦るが、そうではなかったらしい。
銀八は恨めしそうな目でカレンダーを見やり、そして直後にテーブルに突っ伏して嘆いた。
「明日俺の誕生日なのに学校休みなんだよ!!」
「……は?」
「折角の数少ない糖分強請れる日なのに!!!」
何を大仰に嘆いているのかと思えば。
思いもよらぬ銀八の悩みの真相に、沖田は目をぱちぱちとして驚くほかなかった。
明日は土曜日なので、確かに授業はない。
そういえば、と思い出す。
去年の今頃、銀八は生徒たちに向かって「先生の誕生日は糖糖の日です。遠慮しなくていいからどんどん糖分持って来ること」とかなんとか言っていた気がする。
日頃の糖分不足を補おうという目論見だったようだが、それは成功して結構な量をもらっていたのを沖田は知っている。やる気のない態度を装っているが生徒の悩みに親身になってくれる銀八はなんだかんだいって生徒に人気があるのである。
その事実は沖田を心穏やかにさせないのだが、銀八の長所であることもわかっているので、黙って受け入れる他なかった。それ以前に、沖田は銀八の一生徒でしかないので、どうこういう資格はないのである。少なくとも沖田はそう考えていた。
「先生はあした学校に来ないんですか?」
「んー」
テーブルから上体を離した銀八は、ソファに背を預けてちょっと考えるように天井を仰いだ。そして、沖田の方を向いて「沖田は?」と尋ねてきた。
「明日部活ないの?」
質問を質問で返されて、戸惑いながらも返答する。
「…休みでさァ」
「そっか」
銀八の表情に口端をほんの少し上げるような微かな笑みが浮かんだ。
それは優しげでもあり、自嘲めいているようでもあって、沖田はあまり見たことのないその表情に胸がざわつくのを感じた。
「せんせ…?」
疑問を呈する沖田を封じるように、大きな手が茶色の頭をぽんぽんと撫でる。熱を伝える接触に、沖田は頬が熱くなるのを感じた。
「先生も明日はお休みでーす。わざわざ休日出勤なんてしたくねぇからな」
沖田の反応を満足げに眺めた後、一瞬で表情を変えた銀八は、いつものやる気なさそうな姿に戻って空のパックをゴミ箱へと放り込んだ。
ガタンと音を立ててゴミ箱にぶつかったそれは、わずかに距離が足りなくて外へと弾かれる。
「あー…マジついてねぇ」
ガリガリと頭を掻きながら、銀八は億劫そうに立って、弾かれたパックをゴミ箱へと捨てなおした。
離れてしまった手の温もりを惜しむように、沖田は自分の手で銀八が触れていた場所に触れる。銀八に触れられることには、まだ慣れていない。
わずかばかりの熱を与えてくれたその背を目で追う。
――明日、一人なんですか?
――誰かに祝ってもらったりしないんですか?
――なんで、俺の予定を聞いたんですか?
そのどれも、口にすることは出来なかったけれど。
銀八が数歩の距離を戻って来た時、予鈴がなった。
昼休みが終わる。
沖田にとっては、銀八と二人でいられる短く貴重な時間の終了を告げるものだ。
無機質なチャイムに我に返り、カバンを手に取ったところで、その中に入れていたものを思い出した。
「せんせ、これ」
薄いカバンから取り出したものを銀八に押し付けて、沖田は精一杯の笑顔を貼り付けて言う。
「哀れな先生に恵んであげます。それ食べてちょっとでも慰んでくだせェ」
驚愕する銀八の手に押し付けたものは、彼は好んで食べているいちごみるくの飴一袋。沖田が銀八にと思い、忍ばせていたものだ。
たくさんの生徒からもらう糖分の一部にも満たないだろうけれど、少しでも先生の為になればいい。
そう、自分に言い聞かせるように。
「ほいじゃ」
準備室の扉に手を掛けた沖田の背に、銀八の声が重なった。
「沖田」
振り向くと、ピンクと赤を基調にした袋を掲げた銀八が、笑顔でこちらを見ていた。
「ありがとな」
その嬉しそうな顔は、沖田にも伝染する。
満面の笑みを向け合って、そして本鈴に急かされるように沖田は準備室を後にした。
「さむっ…」
太陽が地面に飲み込まれてから大分時間が経っている。日の沈んだ公園は暗く、人の気配もなく静かだ。ギコギコと、錆びたブランコの音だけが響いている。
秋の風が白い肌を撫でては去っていく。殊更冷たくはないが、Tシャツに学ラン一枚を羽織っただけの服装では体温を維持していくのはそれなりに至難だ。
暇を持て余して足を蹴っても、ここのところの雨で湿った土は思ったようには飛んでくれなくて、どうにもすっきりしない。
沖田は大きくため息を吐いたが、それでも鬱屈とした思いでいるわけではなかった。
生来の性格だろう、彼はどちらかというと楽観的で、物事をあまり深刻に考える傾向にはない。嫌なことも時間がたてば忘れるとは言わないがそこまで引きずったりしないし、細かいことは気にしない。とはいえ何事にも例外はあるもので、一部の人間に対してはいつまでも根に持ってネチネチ嫌がらせをするという側面を持つことも事実であるが。
そんな沖田が今現在、誰もいない夜の公園に一人たたずんでいるのには、もちろん理由がある。
黄昏ているわけでは決してなく。かといって何か重大な事件があったわけでもない。
ただ単に、家の鍵を忘れたのである。
沖田は姉のミツバと二人暮らしである。
いつもは沖田が学校から帰る頃にはミツバはもう帰宅していて夕飯の用意をして待っていてくれる。
そのミツバは、今日から一泊の予定で仕事の同僚と泊りがけの旅行に行ってしまっていた。
今朝、ミツバは沖田の出掛けに「そーちゃん、鍵持った?」とわざわざ確認してくれた。それなのに、沖田はよく確認もせず「あー、はい」とおざなりに返答して出発してしまったのだ。多少時間が逼迫していたこともあったのだと思うが、心ここにあらずの状態だったことも事実である。
その結果、一日を終えて帰宅してみれば、鍵はどこにもなかったというわけである。
おそらく今頃自室の机の上あたりでお役御免とばかりに惰眠をむさぼっているに違いない。
大好きな姉が一日とはいえ留守にすることは残念だったが、彼女にも付き合いはあるし、高校3年生にもなって留守番が嫌だと泣き喚くほど沖田も子供ではない。
ぶっ飛んだ性格からはあまり想像できないが、沖田は意外にもしっかりもので忘れ物はしない性質である。
そんな彼が自宅の鍵を忘れて帰宅できないという全く持って間抜けなことをしてしまったのは、ただ単にたまたまやうっかりという理由もあるが、それだけではない。
問題は、明日という日にあった。
明日は10月10日。
銀八の誕生日だ。
昼休みに銀八自ら告白したその特別な日を、沖田は以前から知っていた。それは勿論、昨年銀八が生徒たちにプレゼントとして糖分を強請ったからであったが、沖田はその日付を忘れることはなかった。
そのため、銀八の誕生日のことを思うと沖田は平静ではいられず、ここ数日自分でも認めるほど浮き足立っていた。その結果として、今の状態に至っているのである。
大好きな人の誕生日。
ほんの三ヶ月前、沖田は故意ではないとはいえ、自分の誕生日を銀八に祝ってもらうことが出来た。
その感激は今でも欠片も忘れてはいない。
だから、自分も出来ることなら銀八の誕生日を祝いたかった。
とはいえ、明日は土曜日。
沖田も部活は休みで学校へ行く用事はないし、銀八もそうなのは確認済みである。
そうなると、一生徒でしかない沖田にはどうしようもなかった。知りもしない担任の家を訪ねることもできないし、かといって強引に予定を取り付けられるほど沖田の面の皮は厚くなかった。
幸い銀八の携帯アドレスは知っていたので、メッセージを送ることはできる。
本当は会って伝えたかったけれど、叶わぬことをいつまでもくよくよと引き摺るのは沖田の性には会わない。
そう納得させて、今日も沖田はいつも通り空いた時間に国語化準備室を訪ねて出来うる限りの接触を試みた。思いもかけぬ銀八の姿を見て驚いたものの、彼が欲していた糖分として飴(沖田が誕生日にもらったものと同じものだ)を渡すことが出来たし、滅多に見ることができない満面の笑みを見ることも出来た。
満足したはずだった。
それなのに、どこか物足りなさを感じるなんて、自分はどれだけ欲張りになってしまったというのだろう。
臆病な自分に、もっと欲張ってもいいと言ってくれた銀八。
沖田は胸ポケットから生徒手帳を取り出して一番最初のページを開く。手帳カバーに挟まっているそれは、丁寧に折りたたまれた半透明のラッピング袋とピンクのリボン。
公園に設置された頼りない街灯に照らされて、鈍く光るそれは、沖田の誕生日に銀八がくれたものだ。
甘い甘い飴を包んでいたピンクの包装。中身は既に沖田の体の一部となっていたが、これだけはどうしても処分することが出来ずに、女々しくもこうして持ち歩いている。
これを見るたびに思い出すのは、あの時の銀八の腕のぬくもりと低い声。
そして、満たされた想いと、どうしようもない渇望。
銀八の態度はあの後もほどんど変わりがなかった。
変わったことといえば、ほんの少し、自分を見る瞳が柔らかくなったことと、何かあるとポンと頭を撫でられるようになったこと。
後者はほんの一瞬だし、前者にいたっては多分に希望的観測があるのは否めないと沖田は思っている。
そう思いたいだけなのではないか、と思うのだ。
沖田は今までに何度も銀八に想いを告げている。事あるごとに、しつこいくらいに。そうでもしないと、あの飄々とした銀八にはぐらかされてしまうと思ったからだ。
それでも返答を求めなかったのは、拒絶の言葉を聞くのが怖かったからに他ならない。断られるのが怖くて返事を聞くことが出来ない臆病な自分。
そんな自分を理解してくれていたのか、銀八は何も言わずに付き合ってくれていた。
それが、あの日だけは違っていて、まるでもっと積極的になってもいいんだよ、と他ならぬ銀八が沖田の背を押すような行動をとった。
それが沖田を困惑させる。
少なくとも拒絶はされていない、と思う。そう思いたい。
それでもこれ以上積極的になれないのは、決定的な言葉をもらっていないからだろうか。
煮え切らない銀八の態度と自分の心と。
沖田は戸惑いながら過ごし、そして今日に至る。
「俺は、どうしたいんだろう…」
地面を蹴って大きくブランコを揺らす。
ふと、上下に揺れる視界に、白銀の輝きが映った。
見間違えるはずもないその色合いに、驚いてブランコから飛び降りる。
ずっと頭を占めていたその人が、そこにいた。
「…沖田?」
聞き間違えるはずのない声が自分を呼んでいるのに、沖田は呆然とする他なかった。
いるはずのない人が何故かそこにいる。
「おま、何してんの!?」
学校からの帰りなのだろう、銀八は愛車を公園の入り口に置いて焦った様に早足でこちらへ向かってくる。
「せ、んせ…なんで?」
「そりゃこっちの台詞だっての」
沖田の目の前で立ち止まったその人は、かりかりと頭を掻きながら呆れたように息を吐いた。
暗闇でも光を吸収して存在を主張する銀色の髪が手の動きに合わせてふわふわと揺れる。きらきらと輝いているようで、目を奪われた。綺麗だ、と沖田は思った。
「こんな時間に一人でいたら危ないでしょーが。ねーちゃんと喧嘩でもした?」
言いながら、銀八はブランコの周辺に設置された手すりに腰掛ける。いつも見上げる人を見下ろすことに不思議な感覚を覚えつつ、素直に答える。
「おねーちゃんは旅行行ってんです。喧嘩なんてしてやせん」
「んじゃ何だ、寂しくて彷徨ってたの」
「ガキじゃねぇんだから」
「いやガキだろ未成年」
「確かにオッサンから見りゃガキかもれやせんねィ。ピチピチですから」
「なんだとー!?」
失礼な奴だ、と言葉では憤慨しつつも、銀八は本気で怒った様子はなかった。いつもの会話のキャッチボールを楽しんでいるのだろう。
「先生は帰りですか?」
「んー、そーだよ。先生真面目だから今まで仕事してたの。誉めて誉めて」
「……生徒に誉められて嬉しいんですかィ?」
「嬉しいよ、…沖田が誉めてくれたら」
『沖田が』だなんて、その言い方は卑怯だ。まるで自分だから嬉しいのだ、と言われているようで心が勝手に喜んでしまうではないか。
うまく乗せられているとわかっていても、高揚する気持ちは抑えられなくて、舞い上がったまま行動してしまう。
誉めると言えば、思い浮かぶのはこれしかない。
沖田はその手で銀八の頭を撫でた。
「えらいえらい」
ご丁寧に添えられたお誉めの言葉とその行動に、銀八は目を丸くして見上げてきた。
ひどく驚いたようなその表情に、沖田もまた驚愕する。
「え?………あっ」
そして、一瞬の後我に返り、自分の突拍子のない行動に焦って手を離した。
なんつーことしてんだ俺は!
自分より一回りも年上の、しかも担任に『いいこいいこ』するなんて。
手のひらに残った銀八の髪の感触が自分の行動の大胆さを思い知らせて、沖田は消えてしまいたい程の羞恥に襲われた。
それでも初めて触れたふわふわの髪は気持ちよくて、消えてしまわないように握り締める。
相反する感情に戸惑う沖田よりも、銀八の方が立ち直りが早かったようだ。
今度は大きな手が沖田の頭上に降ってくる。ぽんぽんと優しい温もりを連れて。
「さんきゅ」
優しい微笑みを向けられて、沖田の方が泣きそうになってしまう。
嬉しさと、切なさで。
やはりこの人は大人なのだ。子供の自分と違って、こんなにも心が大きい。改めて銀八との差を思い知らされたような気がした。
切なさに打ち震える沖田には気づかず、銀八は立ち上がってぱんぱんと汚れを払う。
「さてと。んじゃ行くか」
「……」
帰ってしまうのかと顔を上げられないでいると、不意に温かい感触に手を引かれて驚いて顔を上げる。
「ほれ、行くぞ」
銀八が沖田の手を掴んで引いていた。
自分のものより一回り大きな、骨ばった大人の男の手。
皮膚を通して直接流れ込んでくる銀八の熱と、視界に写る『手をつないでいる』という現実とに、とても冷静ではいられない。上気した頬が熱くて沸騰しそうだ。
「ど、どこに」
あまりのことに声が上ずってしまった。
対する銀八は、平然としたものだ。少なくとも沖田にはそう見える平静さで当然のように答える。
「どこって、お前ん家に決まってるだろ」
送るから、と手を引かれて公園の出口まできたところで、沖田の頭はようやく動きを再開した。
「せんせっ、ちょ、待って」
強くつかまれた手は、少しばかり力を入れたところでびくともしない。
「あー?2ケツだって大目に見ろよ。大丈夫大丈夫、先生運転超うまいから」
ちょっとだけだから、とまるで悪戯を見つかった子供のように言いくるめようとしている。これでは取り締まる側と取り締まられる側で立場が逆だ。
しかし今重要なのはそこではない。
「そうじゃなくて、俺家帰れないんですって」
「なんで」
「鍵忘れたから」
鳩が豆鉄砲を食らった、というのはきっとこういう顔のことをいうのだろう。沖田は銀八に見つめられて居心地の悪い思いをしながらそう思った。
「……はあ!?マジでか?」
一瞬の静寂を破ったのは、ご近所迷惑になりそうな銀八の声だった。
「マジでさァ…」
自分の間抜けさを思い知っているだけに、ばつが悪くて声も消え入るようになってしまう。
「お前それでこんなとこふらふらしてたのかよ。そういうことはもっと先に言えって」
「すいやせん」
殊更隠そうとしていたわけではないが、言いづらかったのも事実なので、謝罪は素直に口をついた。
「どっか泊めてもらえるとこねぇの?近藤とか土方とか…」
「実は携帯の電源が切れちまいまして」
「連絡とれねぇってか」
「はぁ」
そう答えつつ、沖田はわずかな後ろめたさを感じずにはいられなかった。携帯の電池が切れてしまったのは事実だが、いざとなれば連絡などいれなくとも、直接家を訪ねればいいだけのことなので。それくらいの非常識が受け入れられるくらいには近藤や土方との親交は深いし、今夜もどうしようもなくなったら近藤を頼ろうとも思っていた。まあ、公園で一泊してもいいと思っていたから今まで行動に移さなかったのだけれど。
それを銀八に言うのは、何故かためらわれた。
銀八は拳をあごに当てて何か考え込んでいる。いくらも経たないうちにその姿勢を崩して、思いもかけないことを言ってのけた。
「わかった。うち来い」
「――は?」
「ここにいるわけには行かないだろうが。ほれ、行くぞ」
再び沖田の手をとって、迷いなく公園を出る。
思考がうまく働かなくて、沖田は銀八のされるがまま、停車していたスクーターの後ろに乗せられて。
気づけば小奇麗な、けれど小さなアパートの前に立っていた。
あまりに突然で想像を超えた出来事に、沖田は銀八と二人乗りしたことも、その腰に抱きついたことも、ほとんど記憶に留めていなかった。
後から考えれば、なんともったいないことを、と思うのだろうが、この時はそれどころではなかったのだ。
「うち2階だから」
動こうとしない、というよりも動けない沖田の手を再び引いて、銀八は階段を上りだす。
こうして手を引かれるのは今日何度目だろうか。
大きな温かい手は、まるで坂田銀八という人をそのまま凝縮したように沖田を優しく包み込んで導いてくれる。
かつんかつんと、金属を踏み鳴らす音が響く。それが二つ重なっているのに気づいて、沖田はああ自分も上っているのかと他人事のように思った。
一段一段上がる階段。
果たして自分と銀八の関係もそれと比例しているのだろうか。
少しずつでも、進んでいけるのだろうか。
沖田にはその先を想像することは困難だった。
それでも、こうしてプライベートの空間に招き入れてもらえたことは、たとえそれが教師としての義務から来たものだとしても、沖田を純粋に喜ばせた。
あと数時間で日付が変わる。
これで、一番に先生に「おめでとう」という権利は手に入れたことになるのだから。
包み込まれた手を握りかえす。
銀八は一瞬だけ足を止め、そしてすぐに歩みを再開させた。
強くつながれた手はそのままに。
「あー、腹減った。飯炊くの面倒臭ェ…パスタでいい?」
「…俺の分もあるんですかィ?」
「いらないならあげなーい」
「いりやす!ありがたくいただきます」
「んじゃ決定」
「はい。せんせい大好き!」
あなたの存在と、
あなたと出会えた奇跡に、
精一杯の感謝と愛情を。
←
銀さんおめでとうvv
タイトルは沖田くんの中の人の曲名からお借りしました。
(2009年10月10日)